“愛すること”

前回のブログを書いてシェアした後、横になって自分の気持ちに思い馳せ過ごしていると、

突然、過去の私が、
それまでとは全く違う姿で脳裏に浮かんだ。


あの記事を書き切り、表にシェアするまでは、
私の過去はただ「死にたかった」過去でしかなく、
自分の胸に突き刺さるほど、その気持ちに苦しんでいた。

だけど、ブログに自分の気持ちを吐き切って
この世界に表現した瞬間、

いかに私がこれまで家族を
「愛してきたのか」

過去の苦しんだ自分自身の姿が、
ただ、「愛していた」姿に変わって、
私の脳裏に浮かんできたの。泣


あれ...
私、もしかして、
ただ、「愛していた」だけなのかな。

そうか...だからあんなに頑張れたし
耐えられたんだな。


子供の頃の自分の行動が
全て家族への愛から生まれたものだったと
ただ、愛していたのだと
見えなかった自分の姿が見えて、衝撃を受けた。


そんなことを考えながら眠りにつき、
翌日Facebookを覗くと、
思ってた以上に通知が来ていて、ビックリした。

どうしよう。と思いながら開いたら、
そこにはみんなからの愛に溢れた言葉が残っていた。




“るなちゃんの「死にたい」には
たくさんの「愛してる」が詰まってる”



“「死にたい」という言葉に「愛」を感じたよ”

 



他にも色んな言葉で想いを伝えてくれたこと、
本当に感謝しています。

ありがとうございました。





なんかね、本当に、びっくりしたよ。

だって、これまで長い間ずっと
「一番間違っている」と
自分の中で思っていたことが、

実は姿形を変えたものだっただけで、
「何よりも一番大切な、自分の愛」
だったんだから。


みんなからもらった
一つ一つの言葉を噛みしめながら、
あぁ、やっぱり、そうなんだ。
私が気付いたことは、やっぱり合ってるんだ。
と確認して、

私は、愛してきたことに気付いて、
愛することが、本当に怖い。と思いました。


どうしようもない、自分の心の弱さと繊細さを、
初めて手に取るようにひしひしと感じました。


だって、「愛」は理由なく
愛してしまうものだし、

それが時に、
自分の身を滅ぼしてしまったとしても
愛してしまうことがあるから。
私の場合はずっと、そうだったから。


愛してしまっても、
「愛」を受け取ってもらえなかったら、
辛い、とも思いました。
物凄く傷付くから。

私の子供なりの精一杯の愛は、
愛として伝わらないことの方が多かった。
思いがけない報復を受けた記憶に、
長い間苦しんだ。


だけど、私はそうやって、 
生まれてきてからずっと「愛すること」を、

他者を愛することを
自分を愛することを

そのことについてずっと、
学んできたのではないか・・・と。

(それってもう、人類不変のテーマな気がする。)


そんな風に
愛することの痛みについて考えていたら、
浮かんできたのは


そもそも、私にとって

「愛すること」こそが、
=しあわせ だったという、気付きだった。



愛させてくれて、ありがとう。

という私の本音。

愛してくれて、ありがとう。

と聞こえくる、
魂からの声のようなもの。



あぁ、これが
私の魂が望んだ

”しあわせ”

だったのかもしれないな、
と、思いました。


頭では、「こんなの幸せじゃない」って思ってた。
精神疾患になり、難病になり、夜逃げをし、
少し幸せになり始めると今度は
過去の衝撃的な記憶が出てきて毎日苦しんで、
その苦しさから死のうとした日々があった。


その数々が、ちゃんと見てみれば
「ただ、精一杯愛し続けた記憶の数々」
だったのだ、と・・・


そう思えたら初めて、
これまでの自分の人生の全てが
「誇り」に思えた。

自分が急に、誇らしくなった。


何よりも、
もう、
「死にたくなる」ことを、

責める必要はないのだと思えたら、
心底、心底、救われた。(T ^ T)

もしもまた、死にたくなる日が来たとしても、
私はただ、私の中の「愛している」を
見つければ良いだけなのかもしれないと、
思えたから。


私の魂にとって、きっと、
「愛すること」こそが、

ただ、
しあわせだったのだ。

そこまで、
「愛させて」もらえることが。


何よりも、

ただ、

こんなにも深い愛を教えてくれて、
ありがとうと。


 


 
だって私、 

知らなかったよ。



こんなにも深く、 

何をされても、
例えそれが逆恨みでも暴力でも

それでも人を、愛せるなんて。



私の中にある、深くて大きな愛の存在に
気付かせてくれたのは、

間違いなく、


私の愛する家族の存在と、
その家族と生きた過酷な日々でした。



だから、静かに、
ただそっと、ありがとうと。
 


この愛が、届いても、
届かなかったとしても

多分、もう、どちらでも良くて。



ただ、願うことがあるとしたら、


あなたがあなたの愛に
触れることの出来る日が来ることを、


ただ、祈り続けるだけ。







私の中ある、深く、大きな愛に気付いて、

人は、なんて弱い存在なんだろうと思った。


今までこんな風に考えたこともなかったけど
よく、考えてみたら、

私の人生の登場人物は、私を含めて
誰もがどうしようもないほどの”弱さ”を
抱えている人たちだった。

どうして、その”弱さ”があることが、
人として当たり前のことだと
考えたことがなかったんだろう。

これまでずっと、
完璧になることを自分に望んできて
それはずっと、「今の自分では愛されない」と
思っていたからだった。

でも、自分の中にある愛に気付いたら、
そんなことどうでもよくなってしまう。



人として生きている以上、
当たり前に誰しもどこか不格好で弱いから、
人間なんだろうな。


「弱さ」があることを当たり前とし
受け入れることを前提にしなければ、

人として幸せに生きるのって、
そして誰もが、
幸せに生きられる社会や、世界を
実現するのは、もはや不可能なのでは・・

という当たり前の盲点に気付いてしまった。




私は、自分の経験を通して、

自分が持って生まれてきた
どうしようもなく深く、大きな愛に
降伏するしかないんだな、と思いました。

例え、自分を不幸にする人を
愛してしまったとしても、

自分の愛に目を背けたら、私は、

また、突き刺さるほどに、
死にたくなるんでしょう?


だから、
すぐに、自分より人を優先して
愛してしまう私も
それで自分を自滅させてしまう私も

そんな弱さを持った私も 
そんな大きな愛を持った私も

これからは全部、ぜんぶ、
愛していくよ。





きっと、誰しもが、
それぞれに、
そうなんだろうな。





これからは、ただ「愛している」

私で、生きていこうと思いました。


そして、これからもこのことについて
私はずっと、考え続けるんだと思う。


今度は、まず初めに一番に
自分を愛することを大切にしながら。



 








ただ、愛してるよ。



これから先もずっと、永遠に。
ただ、静かにここから、


そっと、祈るように。