愛を受け取る
精神的な変化が激しい12月。
私ね、とんでもないことに気付いてしまったの!
それは、
親の感情=自分の感情
だと思ってた、ということ(驚愕
(この感覚って、危険極まりない行為。
だって、相手は他人ですから!)
だから、いつも必死にご機嫌取りしようとしてた。
ご機嫌が回復出来ないと悲しくて
私自身はなんと、死んでしまいそうな
気持ちになっていた。
<相手の機嫌を取れないと死んでしまう>
だなんて、文字に起こしても違和感極まりない。
その感覚が当たり前すぎて
それ自体がおかしいことに気付かなかった。
相手=自分
という感覚は誰にでも発動して、
相手が幸せだったら、私も幸せになると
勘違いしてたの。
どうしてそれを求めたかって?
何より相手が幸せだと、私が安心できたの。
私が欲しかったのは”安心感”で
その感覚はあまりにも、過剰だった。
この言葉を聞いて、かつて言われてきたことは
「それって共依存じゃない?」とか
「自分の幸せを相手に求めるなんて間違ってる。
それは自分の人生を相手任せにして、放棄してるよ!」とか
そういうことだった。
心のことを学んでいくと
<自分の人生は自らが創造している>
と言われていて、
それをだんだん理解出来るようになると、
そう言われることの意味自体は、正しいということが分かる。
だけど、何かがハマりきらない。
私は、この言葉を聞くたびに
「何てむごいことを言うんだろう。」
と思ってきた。
きっとそれを言ったところで
分かってもらえないと思い、
自ら感じることを封印して、閉ざした。
私に一番必要で、大事だったのは
その時、それがどういう”キッカケ”であれ
私の中に
「なんてむごいんだろう」
と思わせるような【感情】が
あることを直視することだった。
それが、最近色んなキッカケが
立て続けに起きて、大噴出した。
私の中にあった、
「なんてむごいんだろう!
なんて残酷なんだろう!!
なんて冷酷なんだろう。。。
どうして。。。」という、
感じてはいけない、
だってそう思うことはおかしいから、と、
封印してきた痛みの感情。
私に必要なことは、
「私の人生はどれほどむごかったのだろう。」
と自分の人生を俯瞰して見て、
泣いてあげることだったと思う。
私は、元々エネルギーが分かる体質ゆえ、
確かに、人の感情に影響を
受けやすいことは間違い無いだろう。
でも、多分それは度を超えていて、
幾度となく私の人生のテーマに上がってきた。
今回、初めて気付いたけれど、
相手の感情=自分の感情
(相手の感情の責任は自分にある)
という感覚は、
元々の人の感情を感じ取りやすい素質のみに
原因があるわけではなく、
それに加えて、意識的に、
後天的にそうとしてしまったことだった
ということ。
なぜなら、親の心が読めないことで
いつ、自分が暴力を振るわれるか
分からなかったから。
相手の感情の機微が分かることで
事前に自分の部屋に逃げたりして
自分の身を守ることが出来たの。
だから、親の心の機微が分かるように
いつも親の心と自分の心を繋いでいた。
(感覚的な話)
さらに親の機嫌を取り続けたのは
親の機嫌が治ることで
自分に対して意味のない暴力が
向かないように仕向けたかったから。
そんなある種<能力>を
本当に、物心つくかつかないかくらいの年齢の頃に
受けた暴力をきっかけに、
無意識のうちに身に付けてきたのだと思う。
しかも、それは無造作に誰に対しても発動して
目の前にいる人が、
自分に対して暴力を振るう人かなんて
分からないのに、
みんながそういう風に思えてしまう。
だから、怖いのだ。
そんな、一連の事実に気付いて、
大変ショックを受けている。
だって、あんまりにも無理ゲーだ。
心のことを学べば学ぶほど
自分が生きるために身に付けてきた術が
いかに、
自分の人生を破壊する術だったのか
気づかされるからだ。
人生が、あまりにも酷くて惨くて残酷で
仕方がない。
どうしようもない。
私に必要なのは、
(学びの過程で人から言われたことも含めて)
あまりに私の人生はむごかった、と
その事実を、ありのまま受け止めて
泣いてあげること。
それが、
一番私が必要としている、
自分への愛。
それと同時に、今も、
傷付いてボロボロの私だとしても、
丸ごと受け止め、愛し続けてくれる人たちが
確かに私の人生に存在しているのだということにも
目を向けていきたい。
気付いてしまったのだ。
私は、
人から素直に愛を受け取れないところがあって
それが長年、どうしてなんだろうと
自分でも疑問だったのだけど、多分それは
その愛を受け取ってしまったら
「あまりに自分の人生が
むごく、残酷であったこと」を
直視せねばならなかったからだ。
とっさに、私の防衛本能は
それをノーとした。
親から受けた暴力は
自分が100%悪かったと思えた方が
ずっとずっとマシだった。
私は、100%親から、
あたたかな愛を受けて育った
幸せな子供だったと、言い聞かせたかった。
信じたかったからだ。
自分の不幸と向き合う、
勇気と力が
私にはなかったのだ。
でも、今ふと、初めてこう思う。
間違っていることを
「間違っているよ」と
私の人生までも使って
示してあげられている今こそ、
本当の意味で、愛を伝えられているのだと。
(示せているのだと。)
犠牲になることは、誰にとっても良くない。
だけど、愛の一つの段階だったと。
たくさんのことを学び、確かに力を付けてきた
今、その私を抱きしめて、
「ありがとう」と伝えたい。
よくやったね、偉かったね!と
一緒に喜び合いたい。
不思議なことに、
人生のむごさ、残酷さに気付いて
散々泣いた今、胸はあたたかい。
あなたが、あなたとして
生まれてきてくれてありがとう。
あなたが、あなたとして
生きてきてくれて、
今、ここに
存在していてくれて、ありがとう。
愛しているよ。
自分の胸の内から
あたたかい声が囁く。
自分を愛し
大切な人たちを愛し
傷付いてボロボロだとしても
そのままの私を丸ごと愛し続けてくれる
人たちの愛を受け取りながら
これからは生きていきたい。
過去にもらってきた
受け取りきれなかった
「愛」も全部、
今、受け取って生きていきたい。
沢山の「ありがとう」と、一緒に。
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